信長がどぎゃあ勝った桶狭間合戦のこと

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1543年(天文12年)にポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられ、以降日本の戦が大きく変わっていったというのは有名な話です。その話の流れで、まず思いつく戦いといえば、織田信長が武田勝頼率いる武田の騎馬隊を三段構えの鉄砲隊で破り、勝利した「長篠の戦い」があります。これは様々なドラマや小説でも描かれる有名なエピソードです。ここではその長篠の戦いと鉄砲について書いてみようと思います。

長篠の戦いについて

長篠の戦いは1575年、年号でいうと天正3年に起きた長篠城を巡る戦です。長篠城は三河国(今の愛知県東部)の豊川とその支流である宇連川の合流地点辺りあった平城で、当時の城主は奥平信昌でした。武田勝頼の軍に攻められた奥平信昌は長篠城に籠城しつつ、やっとのことで徳川家康に救援を求めます。その結果徳川方は織田信長との連合軍として長篠城の救援に向かい、武田VS織田・徳川連合軍の戦いが始まります。 長篠の戦いのクライマックスといえば、最強ともいわれる赤備えの武田の騎馬隊を織田軍の三段構えの鉄砲隊が馬防柵越しに迎え撃ち壊滅的なダメージを与えたところでしょう。初めにも書きましたがこれはとても有名なはなしです。ですが、この戦国時代の歴史的戦いである長篠の戦いではもうひとつ鉄砲を用いた戦いが行われていて、その勝利によってギリギリの籠城戦を耐えてきた長篠城が救われると同時に、長篠の戦いが大勝利に導かれたともいえる重要な戦いでした。それが酒井忠次率いる、織田・徳川連合軍別動隊による鳶ヶ巣山砦の奇襲攻撃です。

鳶ヶ巣山砦の奇襲攻撃

酒井忠次は徳川家の家臣で、この鳶ヶ巣山砦への奇襲作戦はもともと酒井忠次の発案だったといわれています。武田軍はこの時、「設楽原」に進軍していました。「設楽原」は後に武田の騎馬隊と織田の鉄砲隊との決戦地となる場所です。この武田軍の後ろを突き、退路と兵糧を断つために織田信長の命を受け、酒井忠次率いる別動隊が鳶ヶ巣山砦に向かったのですが、この別動隊による奇襲作戦にも織田の鉄砲隊500が参加していたといいます。 当時鳶ヶ巣山砦には両側に2か所ずつ、久間山砦・中山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦という4つの砦が支砦として築かれていましたが、酒井忠次の別動隊はこの奇襲作戦を見事に成功させ、鳶ヶ巣山砦と4つの支砦のすべてを陥落させます。これらの砦は武田軍が長篠城を包囲するために築いたものであったため、奇襲の成功は武田軍の背後を突くだけでなく、包囲されていた長篠城を救うことにもなりました。それによりこの別動隊の酒井軍と長篠城の奥平軍が合わせて武田軍の後方を攻めることが可能となった結果、さらに武田軍にダメージを与えることになり、長篠の戦いの織田・徳川軍の大勝へと大きく貢献しました。

長篠の戦いは鉄砲づくし

三段構えの鉄砲隊による武田の騎馬隊の撃破で、それまでの戦を大きく変えた画期的な戦いといわれる長篠の戦いですが、実はその裏で行われていた重要な奇襲戦でも鉄砲が使われていました。長篠の戦いは表も裏も織田信長の鉄砲隊が活躍した戦だったという点を考えると、当時の新兵器である鉄砲を織田軍が存分に利用した本当に画期的な戦だったということがよくわかります。

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