東京・中野区にルーツあり!生類憐みの令のときの犬小屋って?

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江戸幕府の5代将軍徳川綱吉によって出された生類憐みの令によって、犬は御犬(おいぬ)と呼ばれ、住む犬小屋も御用屋敷や御囲(おかこい)と呼ばれるほどでした。犬小屋は中野や大久保、四谷などに建てられましたが、その広さはケタ違いです。中野は約24万2000坪、大久保が約2万5000坪、四谷が約1万9000坪ですが、東京ドームの約1万4000坪や東京ディズニーランドの約15万4000坪と比べると、一目瞭然の広さです。特に中野の犬小屋には、江戸の町から集められた10万匹の犬を収容しており、犬小屋の奉行や小屋を守る同心もいました。同心は、今でいう警察官ですが、15人ほどが常に警備をしていました。さらに世話係や連絡係も在籍しており、犬のエサ代は周辺地域から徴収した税金でした。

まるで高級住宅のような小屋

そして内部は、現代の高級住宅街を思わせる構造でした。まず、5つの区画に分かれており、25坪の小屋が約300棟あります。もちろん、小屋だけではありません。日よけ場所が約300棟、日よけが付いたエサやり場所が約150棟あり、子犬の養育場所は約500か所ありました。さらにエサを冷ます場所やメス犬の飼育所、獣医の部屋・住居、専用のキッチンホールのようなものまで完備されていました。一方、これらを管理する役人の住居は8か所で、犬とはかなり待遇が違います。こうした犬小屋は、綱吉の生類憐みの令による影響が大きいのですが、野良犬の問題の解決という側面もありました。綱吉が鷹狩りを禁止したため、鷹のエサ用の犬の需要が無くなったことや、犬を食べる習慣が廃れてきたため、江戸の町内には大量の野良犬がいました。この野良犬が子供達を襲ったりしていたため、大規模な犬の収容所が必要だったのです。その後、犬小屋と周辺道路を含めて約29万坪にまで増築され、四谷の犬小屋も廃止されて中野に一本化されました。そして、綱吉の死によって中野の犬小屋も取り壊されましたが、現在の中野区役所前には記念碑と犬の銅像が設置されており、その歴史を後世に伝えています。

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